(6/1/2025)
ディカル・ガスライティング(Medical Gaslighting)という言葉をご存じだろうか。長年アメリカで医師として働いてきたが、最近になってようやくこの言葉に出会った。この言葉は、医師が患者の訴えや懸念に十分に耳を傾けず、適切な対応を行わないことを指すという。
私の知る医師の中には、1日に60人の患者を診る人もいる。日本では、たとえば皮膚科の医師が1日100人以上を診ることも珍しくないと聞くが、アメリカでは60人というのは非常に多い部類に入る。8分に1人のペースで診察することになり、そこに遅刻する患者も含まれるため、実際にはそのスケジュールをこなすのは至難の業である。そのような環境では、患者の話にじっくり耳を傾ける時間が取れないこともあるだろう。その結果、話をきちんと聞かずに誤った判断をしてしまい、不適切な処方を行うリスクがある。
最近、そうした状況に関する記事を読んだ。そこでは、「患者の安全に影響する主なリスクトップ10」が紹介されており、以下のような項目が挙げられていた。
- Risks of dismissing patient, family and caregiver concerns
→ 患者、家族、介護者からの懸念を軽視することによるリスク - Insufficient governance of AI in healthcare
→ 医療におけるAIのガバナンスの不十分さ - The wide availability and viral spread of medical misinformation
→ 医学的誤情報の広範な拡散とその急速な広がり - Medical error and delay in care resulting from cybersecurity breaches
→ サイバーセキュリティ侵害による医療エラーおよび診療の遅延 - Unique healthcare challenges in caring for veterans
→ 退役軍人に特有の医療課題 - Substandard and falsified drugs
→ 粗悪または偽造された医薬品の存在 - Diagnostic errors related to cancers, major vascular events and infections
→ がん、重大な血管イベント、感染症に関連する診断エラー - Persistence of healthcare-associated infections in long-term care facilities
→ 介護施設における医療関連感染の持続 - Inadequate communications and coordination during discharge
→ 退院時における情報伝達およびケア調整の不備 - Deteriorating community pharmacy working conditions, which contribute to medication errors and worsened patient and staff safety
→ 地域薬局における労働環境の悪化(これが投薬ミスや患者・スタッフの安全性低下に寄与)
この記事によると、調査に回答した患者の94%が、「医師に症状を伝えても無視されたり、望む治療を受けられなかった経験がある」と答えている。これらの経験が、「メディカル・ガスライティング(medical gaslighting)」と呼ばれている。
この概念には、症状を軽視・否定する、患者の話を遮る、そして、問題が起こると患者の責任にする、といったような医師の態度が含まれるそうだ。その記事には、さらに、58%の患者が「訴えを軽視されたために症状が悪化した」と回答し、28%が「医師の不適切な対応により救急外来を受診せざるを得なかった」と述べている。人種差別や性差別も関係しており、特に黒人や女性の患者がそのような経験をしやすいと報告されている。
もちろん、医師が患者さんのすべての希望を受け入れるわけにはいかない。たとえば、ウイルス感染症なのに抗生物質を希望されるケースはよくある。そういった時には、ウイルスには抗生物質が効かないことを、時間をかけて丁寧に説明する必要がある。私はそのような時、 「この症状はおそらくウイルスによるもので、抗生物質は効果がないと思います。今無理に使うと、将来的に本当に必要なときに効かなくなるリスクがあり得るので、使わないほうがいいかもしれませんね。」とやんわりと説明する。多くの患者は納得してくれるが、なかには「どんな薬でもいいから出してほしい」と懇願されることもある。そのような場合も、何度も繰り返し、丁寧に説明するよう努めている。
依存症の治療でも同様の課題がある。不安障害を抱える患者から、ベンゾジアゼピン系薬(特にザナックス)の処方を強く求められることがある。ザナックス(アルプラゾラム)は即効性が高いため非常に人気があるが、依存性が高く、私の働くクリニックでは処方を行っていない。その理由を、 「当クリニックの方針として依存性のある薬は処方できないのです。また長期使用による副作用のリスクも高く、安全性を考慮すると他の治療法をかんがえたほうがいいですよ。」と説明する。理解が得られない場合は、精神科専門医への紹介を行うこともある。ただし、過去に紹介先の精神科医から「あなたがザナックスを勧めたと患者が話していた」と連絡を受けたこともあり、ミスコミュニケーションの恐ろしさを実感した。このように、患者の訴えをそのまま受け入れて希望の薬を出すことは、必ずしも患者の利益にはならない。場合によっては、医療訴訟に発展するリスクすらある。だからこそ、医師は医学的に適切と判断する薬と、患者が希望する薬が異なる場合でも、根気強く説明し、信頼関係を築くことが必要だ。
私自身は中毒医学を専門にしており、比較的長めの診察時間を確保してもらえるが、毎日60人以上を診る家庭医にとってはそれも難しい。結果として、患者は「話を聞いてもらえなかった」「ガスライティングされた」と感じてしまうことがあるかもしれない。つまり、医師側に悪意がない場合でも、患者側が受ける印象にはギャップが生じうるということだ。
また興味深いのは、「ネバーワード(never words)」と呼ばれる、医師がよく使う言い回しもガスライティングと捉えられる可能性があるという点だ。たとえば、
- 「今はそのことは気にしなくていいですよ」
- 「後でまた考えましょう」
といったその場をやり過ごす表現も、患者にとっては「無視された」と感じる要因になる。
では、このようなガスライティングを防ぎ、患者が「きちんと話を聞いてもらえた」と感じるにはどうすればよいのだろうか?
この記事では、まず十分な診察時間を確保することが重要だと指摘していた。しかし、5分ごとの予約枠で診療していれば、じっくりと話を聞く余裕はない。スケジュールが押せば、時間通りに来た患者が長く待たされることになり、クレームにもつながるだろう。また、クリニック運営の観点からは、収益確保のために診療数を増やす必要があるという現実もある。そうした構造が、医師と患者の間に溝を生んでいるのかもしれない。
医学生や若手医師への教育の改善も提案されているが、やはり最も重要なのは、医師の患者に対する基本的な姿勢と態度ではないかと思う。その態度を変えるには、表面的なスキル研修では不十分で、根本的なコミュニケーションスタイルの見直しが求められる。
では、かかりつけの医師に話を聞いてもらえない場合、どうすればいいのだろうか。私であれば、他の医師を探すかもしれない。ただし、保険の適用範囲や地理的な制約により、それが難しいケースもあるだろう。最近では、Amazon Clinicなどによる遠隔診療(テレメディスン)も広まりつつあり、Zoom等を通じて別の医師に相談する手段もある。そうしたサービスをうまく活用することも、選択肢の一つかもしれない。
私は幸運にも、さまざまな中毒医学の現場で働く機会を得た。個人経営のクリニック、大規模な民間クリニック、州立大学附属病院、私立大学の医学部付属クリニックなど、多様な医療環境を経験してきた。たとえば、州立大学のクリニックでは、比較的ゆとりある診察時間が確保されており、患者としっかり向き合うことができた。ただ、給料は安めだが。一方で、民間の大規模クリニックでは、給料はいいのだが、診療件数が医師の評価基準とされるため、どうしても「患者を効率的にさばく」姿勢におちいりやすい。
だからこそ、医学は難しい。日本には「医学は算学」ということわざがあるが、収益構造が医師の診療スタイルに影響を与えるのは避けがたい現実である。それでも、やはり一番大切なのは、医師としての「思いやりの心」だと私は信じている。その心は、医学部でも教えることはできず、経験年数だけで培えるものでもない。人生の中で、他人の痛みや悲しみを目にし、自分自身の経験を重ねていく中で、少しずつ人としての深みが生まれ、患者に寄り添える医師へと成長していく。またそうでありたい。そんなふうに感じる、今日この頃である。