もう何年も前のことになりますが、私がアージェントケア(急な体調不良のときに受診する外来クリニック)でアルバイトをしていたときの出来事です。48歳のヒスパニック系の男性が「胸が痛い」と言って来院しました。その日はとても混んでいて、彼が受付をしてから私が診察するまでに、少なくとも1時間は待っていたと思います。
話を聞くと、胸の痛みは前日の朝から続いているとのことでした。痛みは鋭く、息を吐き切ると楽になるのですが、息を吸うとまた痛みが出るというものでした。胸全体が痛く、食事とは関係がないということでした。
胸の痛みと聞くと、まず考えなければならないのは「心臓の病気」、特に心臓発作(心筋梗塞)です。私はそれを念頭に、いくつか質問をしました。例えば、「胸が押しつぶされるような重たい感じはあるか」「痛みが左腕やあごに広がるか」「痛みの強さは0から10でどれくらいか」などです。しかし、彼の話を総合すると、いわゆる典型的な心臓発作の痛みというよりは、肋骨や筋肉の炎症のようにも感じられました。
彼はこれまで特に大きな病気もなく、高血圧や糖尿病もありませんでした。見た目にも元気そうで、「今までこんな痛みは経験したことがない」と言っていました。タバコも吸わず、建設業のマネージャーとして日頃から体を動かして働いているため、自分の体には自信がある様子でした。そのため、私が心臓発作の可能性について話しても、「それは自分にはありえない」と言っていました。
それでも私は念のため、心電図(心臓の電気の動きを調べる検査)を取ることにしました。もしこれで問題がなければ、次に胸のレントゲンを撮って、肺や他の原因を調べる予定でした。
看護師が心電図の結果を持ってきたとき、私は思わず息が止まりそうになりました。その結果は、明らかに心臓発作を示していたのです。
私はすぐに診察室へ戻り、「あなたは今、心臓発作を起こしています。すぐに救急車で病院に行く必要があります」と伝えました。
ところが彼は、「救急車はお金がかかるから使いたくない」と言いました。そして、近くに住んでいる息子さんに迎えに来てもらい、そのまま病院へ行きたいと言ったのです。
私はこれは命に関わる緊急事態であることを何度も説明しました。そして、すぐに病院へ行くこと、到着したらこの心電図を見せて「胸が痛くて、心臓発作と言われた」と必ず伝えることを強く指示しました。そうしないと、待合室で長く待たされてしまう可能性があるからです。
最終的に彼は息子さんに迎えに来てもらうことにし、クリニックを出ていきました。
この出来事で強く感じたことがいくつかあります。
まず一つ目は、患者さん自身が病気の重さを実感していなかったことです。普段から健康で、「自分は大丈夫」と思っている人ほど、まさか自分が命に関わる状態にあるとは受け入れにくいものです。私が「心臓発作です」と伝えたとき、彼はとても驚き、信じられないという表情をしていました。
二つ目は、お金の問題です。アメリカでは救急車を呼ぶと、保険があっても数百ドルかかることがあります。そのため、本来はすぐに救急車を使うべき状況でも、ためらう人が少なくありません。
では、このようなとき医師はどうすべきでしょうか。
まず、今の状態がどれほど危険かを、できるだけ分かりやすく、はっきりと伝えることです。「命に関わる可能性がある」ということを、遠回しではなく伝える必要があります。
次に、患者さんがどうしても救急車を使わない場合でも、できるだけ早く病院へ行ける方法を一緒に考えることです。今回のように、家族にすぐ来てもらうというのも一つの選択です。
そして三つ目に、とても大切なのが記録です。どのような説明をしたのか、患者さんがどう判断したのか、そのやり取りをできるだけ詳しくカルテに残しておく必要があります。これは医師自身を守るためでもあり、後から何が起きたのかを正確に振り返るためにも重要です。
もし仮に、この患者さんが病院へ向かう途中で容体が悪化した場合、そのときにどのような説明がなされ、どのような選択がされたのかが問われることになります。
アメリカでは医療費が高いため、必要な医療であっても受けるのをためらったり、救急車を呼ばなかったりすることが現実にあります。患者さんには自分で選ぶ権利がありますが、その選択が必ずしも安全とは限りません。ここに医療の難しさがあります。
医師は最善と思うことを伝えることはできますが、最終的に決めるのは患者さん自身です。そのため、日頃から患者さんとのコミュニケーションを大切にし、そしてしっかりと記録を残すことの重要性を、改めて強く感じた出来事でした。
最後に読者の方へ
もし「胸の痛み」を感じたときは、「様子を見よう」と自己判断するのではなく、まずは医療機関に相談してください。特に、今までに感じたことのない痛みや、突然始まった痛み、息苦しさや冷や汗、吐き気を伴う場合は、迷わず救急対応を考えることが大切です。
「自分は健康だから大丈夫」と思っている方ほど、判断が遅れてしまうことがあります。今回の患者さんのように、見た目が健康であっても、心臓発作が起こることは決して珍しくありません。
いざというときには、費用のことよりもまず命を守る行動を優先してください。そして、ご家族や周りの方も、そうしたサインに気づいたときには、ためらわずに医療につなげることが大切です。「念のため」が命を救うことがあります。
